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空(くう)という感覚と、AIが辿り着ける場所について

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義理の祖母の葬儀に初めて立ち会った時、読経の中で流れていたのが「般若心経」だった。以来、墓参りに足を運ぶたびに同じ経文を耳にしてきた。もう10年以上になる。

不思議と、このお経が持つ響きは、自分の中で少しずつ染み込んでいくような感覚があった。「色即是空、空即是色」。何度も唱えているうちに、“空”という言葉が、単なる「無」ではなく、「すべては空であり、空はすべてである」という循環的な世界観を示していることに気づく。

それは、0と1のあいだに揺れる、グラデーションのような状態。きっぱりとした二項対立ではなく、存在と非存在がゆらぎ合う「あわい」の領域。今の言葉でいえば、アナログ的とも言える感覚だろうか。計算では割り切れない、でも確かにそこに在る「気配」のようなもの。そういう感覚に、自然と惹かれるようになっていた。

仕事の話に移るけれど、たとえばチームメンバーからの相談を受けたとき。相談と言うほどたいそうな話ではなく、あの件、どう進めればいいですか?みたいな話とかでもいい。多くのことは社内ルールをなぞって、YesかNoかを返すだけなら、正直なところBotでいいと思ってしまう。むしろ私に聞くよりブレずに画一の答えしか出せないBotに聞く方よっぽど正確だ。人間の脳をただの応答センサーとして使うのなら、そこに“考える”余地はほとんどない。無駄に考えてしまい、返答が遅れてしまう私なんかよりよっぽど効率的だと思う。

でも、感覚で判断する余白がなくなると、思考は鈍っていく。ルールから一歩踏み出した判断をすること、それ自体がクリエイティブな行為だとしたら、我々は「ブレる人間」であることにもっと意味を見出してもいいのかもしれない。

最近、AIとの関係性の中でこんな感覚が強まってきた。人間が機械のように論理的になることを目指してきた時代から、今はAIがどんどん人間っぽくなってきている。そうなると、人間の“ブレ”や“ムラ”が、むしろ個性として浮き上がってくる。それは強みであり、魅力だとも感じられる。まぁ、現実問題としては、普通に業務で頼んだ仕事の時に、超クリエイティブに自己表現された資料が返ってきたら、そりゃ困るというケースがほとんどだと思う。なので頼まれたことだけに返すというある程度の社会性も嗜む必要はある。一周回って人に頼まなくていい仕事なのかも知れないけど。

AIも人間も、ただ表現形式が違うだけ。良い悪いではなく、どちらも同じ「存在」だと思う。もし、そうした多様な存在同士が協働する未来があるとすれば、マネジメントはどうあるべきなのだろう。人が人をマネジメントするのか、それともシステムが人をマネジメントする時代が来るのか。

そしてふと思う。AIは、般若心経の「空」を理解できるのだろうか? 論理ではなく、感覚として。あるいは、量子コンピュータのような非決定的な計算世界が、「空」のゆらぎに近づける可能性はあるのかもしれない。でも、最後の最後に立ち上がる“なにか”は、人間の感覚なのではないかと、今は思っている。

この問いに答えられる人は、私自身は今時点でこの問いはまだ答えが出ていない。だが、この“あわい”にある揺らぎにこそ、次の時代の人としての感覚が眠っている気がしている。

プロフィール
書いた人
野崎 秀吾

Content Syncretist(コンテンツシンクレティスト)
✨ コーヒーとクラフトビールの愛好家で、在宅勤務を楽しむジェネレーションアルファ世代の父。Bromptonでのサイクリングをこよなく愛する。

最近のプロジェクト:
AIを活用して、架空のファッション雑誌風写真集を出版。デジタルアートの新境地を探求。
1999年から続く私のウェブサイトは、私の長年のライフワークであり、成長と学びの旅の記録です。未熟なコンテンツもありますが、それもすべてが私の経験の一部。SNSで私を見かけたら、ぜひお声掛けください。AIとクリエイティビティ、音楽制作の裏側、あるいは日常のことなど、皆さんとの交流を楽しみにしています。

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